[Day 163] お借り給いたるお矢の値
六月 · 風を待つ方法 | 約三分の読み

明けたる日の早き、周瑜(しゅうゆ)が、孔明(こうめい)に、お言葉を、お切(き)り出(い)で給いたり。
「先生。我ら水軍に、十日(とおか)の内に、お矢、十万本(じゅうまんぼん)が、お必要に、ござる。先生が、お監督(かんとく)給え。」
孔明が、扇(おうぎ)を、上り上げ給いたり。扇の終りが、早きの空気を、お触(ふ)れ給いたり。
「都督。十日は、長き、ござる。三日(みっか)にて、十分(じゅうぶん)に、ござる。三日の後(のち)、このお席にて、十万本のお矢を、都督の前に、上り上げ、お差し上(あ)げ給い申さん。」
周瑜のお眼が、軽く、お狭(せば)まり給いたり。十日の内に、十万を、お作り給う事もまた、お易(やす)きにあらざりおりたのである。三日の内に、十万は、普通(ふつう)の職人(しょくにん)の手にては、お得(う)給い難(がた)きお数値(すうち)にてあった。周瑜のこのお言葉は、昨夕(さくゆう)の亭子の二つの杯の青銅のお音の内側に、既(すで)に、お隠(かく)れ給いおりたるお言葉のご連続(れんぞく)にてあった。
周瑜が、孔明のお言葉を、再び、お確(たし)かめ給いたり。
「三日と、お申し給いたるな。そのお約束(やくそく)を、文書(ぶんしょ)にて、お遺(のこ)し給うべきや。」
「喜(よろこ)びて。」
孔明が、筆を、上り上げ給いて、紙に、ひと行(ひとぎょう)を、お記(しる)し給いたり。
「三日の内に、十万のお矢を、都督の前に、上り上げ、お差し上(あ)げ申す。万一(まんいち)、お期限(きげん)の内に、お成(な)し給うを、お得(う)ざらば、この書生のお頸(くび)を、お差し上げ申す。諸葛孔明(しょかつこうめい)。」
紙が、周瑜の前に、お置かれおったのである。周瑜のお口元(くちもと)に、極めて短き微笑が、お過り給いたり。その微笑の内側に、今朝のお試(こころ)み給うのご意図(いと)が、お露(あらわ)れ給いたり。職人もまた、鉄もまた、竹もまた、羽もまた、三日の内に、お集(つど)え給うを、お得ざるお物(もの)にてあった。周瑜は、今朝のご署名(しょめい)の上に、既に、孔明のお頸を、予(あらかじ)め、お見給いおったのである。
されど、孔明のお顔には、お揺(ゆ)らぎの自(おの)ずからが、ござらざりおりたのである。彼は、筆を、お降ろし置き給いて、傍(かたわ)らに、お座り給いて、両人のご対話(たいわ)を、お見給いおりたる魯粛(ろしゅく)に、お向(むか)い給いて、扇を、上り上げ給いたり。
「魯公(ろこう)。この書生が、ひとつのみ、お請(こ)い申し上げ申さん。今日の中(うち)に、小さき船、二十隻(にじゅっせき)のみを、川辺(かわべ)に、お集(つど)え給え。各船(かくせん)の両側に、藁束(わらたば)を、厚く、お結(ゆ)い置き給い、船の上には、太鼓(たいこ)数つと、旗数つを、お立て置き給え。鉄もまた、竹もまた、羽もまた、職人もまた、お必要に、ござらず。」
魯粛のお顔に、ご疑念(ぎねん)が、お座り給いたり。
「臥龍(がりょう)先生。鉄も、竹も、羽もまた、ござらずして、三日の内に、十万を、いかにて、お作り給うべきや。」
孔明が、扇を、お畳(たた)み給いたり。
「魯公。お作り給うにあらず、お借(か)り給いたるところに、ござる。」

周瑜のお眼が、再び、軽く、お狭まり給いたり。魯粛のお眼は、ご疑念の自ずからの上に、お驚(おどろ)きの自ずからを、お載(の)せ給いたり。孔明は、扇の終りにて、早きの空気のひと点を、お指(さ)し給いたり。その点は、北、曹操(そうそう)水軍のご営寨(えいさい)の方向にてあった。
「お借り給うの値(あたい)は、お借り給いたる方が、お致し給うものに、あらざる、ござる。お借り給うの値は、お差し上(あ)げ給う方が、お致し給うものに、ござる。三日の後(のち)の早きに、お差し上げ給う方が、十万の値を、ひと度(たび)にて、お致し、お差し上げ給う事と、為(な)り申さん。」
孔明のこのお言葉の内側にて、今朝のご署名の厚さが、お変じ給いたり。周瑜のお口元に、短き微笑が、再び、お過り給いたり。されど、今度(こたび)の微笑は、昨夕の微笑と、異(こと)なり、お試み給うのご意図のご露(あらわ)れにあらず、ひと手の深さのご認(みと)めにてあった。
周瑜が、お席より、お立ち給いたり。そして、魯粛に、お向き給いて、お言葉を、お降ろし給いたり。
「魯公。臥龍先生の、お請(こ)い給いたる二十隻の船と、藁束と、太鼓と、旗とを、今日の中(うち)に、川辺に、お集(つど)え、お差し上げ給え。条件(じょうけん)のみ、お加(くわ)え給わん。このお事は——曹操の陣営に、ひと言も、お漏(も)れ給う事、無きように。」
魯粛が頭を、お垂れ給いたり。
「お知り給い申せり。今日の中に、お集え、お差し上げ給う、ござる。」
孔明もまた頭を、お垂れ給いたり。
「三日の後の早きに、この書生が、都督の前に、十万の値を、上り上げ、お差し上げ申さん。」
周瑜が、背(せな)を、お回(まわ)し給いて、お部屋を、お出(い)で給いたり。お部屋の内側に、孔明と魯粛の両人が、お遺(のこ)り給いたり。魯粛が、孔明の傍らにて、扇の方向を、再び、お見給いたり。扇の終りは、未(いま)だ、北を、お指し給いおったのである。
「臥龍先生。お差し上げ給う方が、値を、お致し給うとのお言葉のお意(こころ)を、それがし、未だ、皆(みな)、お読み給い得(う)ざる、ござる。三日の後の早きに、そのお意を、直(ぢか)に、お見せ、お差し上げ給うや。」
孔明が、扇を、しずかに、お降ろし給いたり。
「さやうに、ござる。三日の後の早きに、魯公もまた、船の上に、共に、お乗(の)り給え。その早きのひと呼吸の内側にて、お借り給うの値のお意が、ひと結にて、お解(と)け給い申さん。」
朝の日の光が、お部屋の東の窓より、お渡(わた)り、お入り給いたり。日の光が、卓(たく)の上のひと張のご署名の紙の上に、お触(ふ)れ給いたり。ご署名の文字の終り毎(ごと)に、光が、ご反射(はんしゃ)給いたり。
Book 6 の七番目の朝が、ひと張のご署名の上にて、しずかに、お開き給いたり。ひと書生の扇が、北を、お指し給いおったのである。その北の方向に、三日の後の早きのお呼吸が、既に、お待ち給いおったのである。
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“✒️ 平訳家の一言 — 延三欽博士(Yeon Sam-Heum, Ph.D.)
お借り給うの値を、お借り給いたる方が、お致し給うにあらず、お差し上(あ)げ給う方が、お致し給う事と、為(な)り給うお席が、ござる。そのお席は、お相手のお試(こころ)み給うの重さを、お相手の早きのお呼吸へと、お返し、お遣(つか)わし給うお席に、ござる。今朝、貴方の前にもまた、お相手の、お差し出(い)で給いたるお試み給うの重さが、もしや、お置かれ給いてはおらぬか。その重さの値を、お相手が、ご自(みづか)ら、お致し給う事と、為り給う早きのお呼吸を、しずかに、お描(えが)き給うとは、いかが(や)。
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