[Day 160] 書生のお刀
六月 · 風を待つ方法 | 約三分の読み

ご会堂(かいどう)の外側のお部屋にて、今朝の舌戦(ぜっせん)を、お聞き給いおりたる孫権(そんけん)が、遂(つい)に、お戸を、お開(ひら)き給いて、ご会堂の内側へと、お入り給いたり。彼のお歩みは、しずかにてあった。ご会堂の木の床(ゆか)を、お響(ひび)かしめ給わざる、お歩みにてあった。
十一名の文官が、孫権を、お向(むか)い給いて頭を、お垂れ給いたり。孔明(こうめい)もまた、お席より、お立ち給いて、ご挨拶を、上り上げ給いたり。孫権が、ご会堂の東の上座(じょうざ)へと、お歩み給いたり。
上座の前には、卓(たく)が、お置かれおったのである。卓の角(かど)には、ひと振(ふり)のお刀が、斜(なな)めに、お置かれおったのである。孫権のお父上、孫堅(そんけん)のご遺品(いひん)にてあった。江東(こうとう)の君主が、ご決定のお席に、お座り給う毎(ごと)に、その、お刀が、卓の角に、お置かれ給うが、江東のご礼儀(れいぎ)の規則にてあった。
孫権が、上座に、お座り給いたり。彼の右の手が、卓の上に、しずかに、お載(の)り給いたり。お指(ゆび)の先(さき)が、お刀の柄(つか)のひと寸(ひとすん)の前に、ござりたり。お指の先と柄との間(あいだ)のひと寸の距離(きょり)の内側に、今朝のご決定が、お置かれおったのである。
孔明が、お席に、再び、お座り給いたり。彼のお膝(ひざ)の上には、扇(おうぎ)ひと柄(え)が、お置かれおったのである。扇の終りが、ご会堂の床を、お向(むか)い給わずして、ご会堂の真ん中の空気を、お向き給いおったのである。
孫権のご視線が、孔明の扇の上に、暫(しば)し、お留(とど)まり給いたり。その後、孔明の両眼へと、その、ご視線が、お渡り給いたり。孔明の両眼もまた、孫権の両眼を、しずかに、お受け給いたり。
両人の最初のご対面(たいめん)にてあった。君主の卓の上のお刀と、書生のお膝の上の扇とが、今朝、ご会堂の真ん中にて、互(たが)いを、お向(むか)い、お見給いたり。
孫権が、まづ、口を、お開き給いたり。
「臥龍(がりょう)先生。先生が、十一方の前にて、お致し給いたるお言葉を、戸の外より、お聞き給い申せり。『漢(かん)のお臣が、漢を、お守り給うか、お捨(す)て給うか』とのその自(おの)ずからのお名を、それがしの手のひと寸の前のこのお刀が、既(すで)に、お知り給いおられ給うがごとく、ござる。ただ、君主のご決定は、お名のみにて、お降ろし給わるるものに、あらざる、ござる。そのご決定の後ろに、お置かれ給う盤(ばん)の重さもまた、共に、お計量(けいりょう)給わねばならぬ、ござる。」
孔明の扇が、しずかに、お動き給いたり。
「孫公子(そんこうし)。君主のご決定が、盤の重さを、お計量給わねばならぬとのお言葉、ご当然(とうぜん)に、ござる。ただ——天秤(てんびん)のひと側に、今朝のご降伏(こうふく)の器(うつわ)が、お置かれ給い、別なる側に、明日以後の抗戦(こうせん)の器が、お置かれ給う時、両器の重さは、公子の、お思い給う側とは、反対の方向へと、お傾(かたむ)き給うを、お得(う)る、ござる。」

孫権のお指の先が、お刀の柄のほうへと、半(なか)ば寸(すん)、いっそう、お近付(ちかづ)き給いたり。されど、柄を、未(いま)だ、お握り給わざりおったのである。
「いかにて、反対の方向へと、お傾き給うとの事に、ござり給うや。」
「ご降伏は、軽き、お択(えら)びと、お見え給うも、その軽さの後ろに、お続(つづ)き給うものは、江東孫氏のお名のご永久(えいきゅう)の消滅(しょうめつ)に、ござる。抗戦は、重き、お択びと、お見え給うも、その重さの後ろに、お続き給うものは、江東孫氏のお名のご永久の保存(ほぞん)に、ござる。天秤の上のひと時(とき)の軽さと、ひと世代(せだい)の後のお名の保存の重さとの中(うち)、君主におかせられては、いずれの側を、お計量給うべきや。」
孫権が、長く、お息を、お吸い入(い)り給いたり。彼の右の手が、お刀の柄のひと寸の前にて、再び、お止(とど)まり給いたり。
孔明の扇が、二度目(にどめ)に、お動き給いたり。
「孫公子。書生のお膝の上には、扇ひと柄が、ござる。君主の卓の上には、お刀ひと振(ふり)が、ござる。扇は、お刀の重さを、お持(も)ち給わざる、ござる。されど——扇のひと自(おの)ずからが、お刀を、お動かし給うを、お得(う)る、ござる。今朝のご決定が、その、お動きのお席に、ござる。それがしの扇が、公子のお刀を、お動かし、お差し上(あ)げ給う為(ため)に、このお席に、ござる。」
孫権の眉(まゆ)が、軽く、お上り給いたり。その後、再び、お降(お)り、お座り給いたり。彼の右の手が、お刀の柄より、半寸、再び、お退(しりぞ)き給いたり。その、お退きの内側に、今朝のお迷(まよ)いの自ずからが、ござりたり。
「臥龍先生のお言葉が、お刀の重さを、お持ち給う、ござる。ただ——このご決定は、今朝、このお席にて、即(すなわ)ち、お降ろし給われ給わざる、ござる。明日の早きのお席へと、お移し置き給わん。明日の早きに、わが手が、このお刀を、いかにて、お握り給うべきかは、今夕の夜の間(あいだ)に、お結意給う、ござる。」
孔明が頭を、お垂れ給いたり。
「ご当然に、ござる。君主のご決定は、ひと夜の深さの間のお呼吸を、お経給いて、はじめて、お降ろし給わるべきご決定に、ござる。今夕のお呼吸を、それがしもまた、外のお部屋にて、しずかに、共に、お致し給う、ござる。」
孫権が、お席より、お立ち給いたり。十一名の文官もまた、お立ち給いたり。孔明もまた、お立ち給いたり。ご会堂の内側の空気が、しずかに、お整え給われたり。孫権の右の手が、卓の上のお刀より、しずかに、お退き給いたり。その、お退きの内側に、明日の早きのご決定が、再び、お待ち給いおったのである。
朝の日の光が、ご会堂の西の窓に、ほぼ、お達(たっ)し給いおったのである。今朝のご会堂が、お終(お)え給われ給う時刻にてあった。
Book 6 の五番目の朝が、ご会堂のお戸を、お出(い)で給いつつあったのである。書生の扇と、君主のお刀とが、卓の上のひと寸の距離を、お置(お)き給いて、各々(おのおの)のお席へと、お戻り給いたり。明日の早きまでのひと夜(ひとよ)が、今夕、ご決定のひと結を、お抱(いだ)き給う事と、為(な)り申さん。
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“✒️ 平訳家の一言 — 延三欽博士(Yeon Sam-Heum, Ph.D.)
君主の卓の上のお刀と、書生のお膝の上の扇とが、ひと寸(ひとすん)の距離を、お置き給いて、はじめて、向(むか)い、お見給う朝が、ござる。扇は、お刀の重さを、お持(も)ち給わざるも、扇のひと自(おの)ずからが、お刀のひと結を、お動かし給うお席が、ござる。今朝、貴方の卓の上には、いかなるお刀が、その傍(かたわ)らのひと寸の距離には、いかなる扇が、お置かれ給いおられ給うか。そのひと寸の距離を、しずかに、お見つめ給うとは、いかが(や)。
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